しばらく曲が出来なくて、
というか、曲らしくなっても、どうもわざとらしかったり誇張している様で気持ち悪くて、出来てはボツが数年続いてた。
一昨年から、曲になるときは、スルスルスルと曲が生まれてくることが増えてきた。
一昨年は一曲、去年は三曲。
ひとつはinweuのバンドメンバーと練習中に、
皆んなの音が移り変わっていっても同じメロディーでそこにいたいなって思って探していたら、
それと一緒に言葉がぽつぽつ。
歌っていると、みんなと今一緒にいるんだなぁということや、音からの優しさや力強さを実感する。
好きだなぁと思える曲になってとても嬉しい。
曲?は、生まれては来るけれど、その時がいつ来るかはまだ掴みきれていない。
ときおり、" どうやって曲をつくるんですか? " と聞いていただくことがあるけれど、 " 曲をつくる " という言い方は、とてもしっくり来ないでいた。
" 降りてくる " なんていうのも、
なんか今はすごく違和感。
いつもうやむやに答えてしまったことが、
嘘をついてるみたいな感じにモヤモヤしていて、
どうやら気になっていたみたい。
***
最近は、友達親子と過ごす時間がちょこちょこと続いて訪れたのだけど、
その数日前にまるっと一気に曲らしい感じがぶわわわっと来たのを、
そのまま流れて取り逃がしてしまわずに、録音メモに残すことが出来た。
子どもが転びそうで転ばずに歩く様子や、
言葉が通じないもどかしさが感情で出ちゃう様子、
その体感をそばで感じているのがとても心地いい。
今になって思うと、過干渉で育ったわたしにとって、
したいようにしていく工程を見せてもらえることや、
不器用でもやろうとする姿はとっても励まされるんだと思う。
そのそばで、一緒に過ごす友達たちとの暮らしを感じることも。
きっとその心地よさを言葉で共有したかった。
ものすごく可愛らしく、子どもも大人も色んなことを不器用にやってっていいんだよなぁ、そうだよなぁって教わったことも。
その時にぱっと言葉に出来る能力が長けていたら、きっと音楽という形のアウトプットはしなかったんだろう。
言葉にしたい感覚の欲求が、音楽という形にすぽっと入る時がある。
そこに居るひとや、過ごしてきたひとと交わした言葉や、まつわる気持ちの未消化なもの。
嬉しかったことも悲しかったことも、言葉にならないものがありすぎると、そのうち体がいっぱいになってしんどくなる。
デトックスに近いんだと思う。
アウトプットしたのは私であっても、
その言葉の体感は、必ずしも私のものだけではない気がしてて、
" わたしの曲 " にはなるんだけど、そうじゃない感じがいつもしていて違和感があった。
こうやって書いてみたら、
でも、それってやっぱり自分の感覚なのかな?
何かに感動したり、共感するって、すごく不思議。
なんか不思議なことがいつまでも多い。
説明はわかるけど、腑に落ちないこと、知りたい。
また話がズレた!
録音メモで声にしたメロディーが、
友達の楽器の音だと思ったことをその子に話したら、
そのメモをちょっと聞いてくれたのだけれど。
自分でも聞き返してみたら、あんまりにも音を探り探り、迷路の様な録音メモだった。
ので、楽譜起こしをしていたんだけども、
記憶で書き起こしたのを書き直してみると全然違う。
録音メモで探って見つけ、探って見つけしている音をなぞらえると、
友達親子と過ごしたときの体感があった。
わたしだけの曲ではやっぱりなかったって思ったことを、言葉に記しておきたかった。
そうすれば、ライブのときも、もっと曲に安心して身をまかせられそうだなって思ったんだな。
友達のお家で、すごく素直に歌えたら、一緒にみんなの気持ちが動いていて、それをまた安心して感じながら歌っていられた感覚だった。
3月のいくつかのライブがとても楽しみ。
素直にやるのも、きっと、自転車乗りとおんなじ。
力を抜いてやれるようになるよ。
だんだんにそういうこと増えてきたもんね。
一緒に過ごしているうちに、曲が曲になる。
今は、それがとても嬉しい。
言葉にしたい感覚の欲求が、音楽という形だけでなくても、言葉になるなら普通に言葉にして消えるなら、それでいい。
つい形に固執したくなる自分がいること、
その安心感に似た枠は自分を苦しめてきたこと、
言葉にすることで、これから、気がつくの、だんだんに早くなるかな。
どの形にもさっとアウトプットして、すっきり気持ちよくいられる友達や子どものそばが、とても気持ちよかった。
先ずは言葉も、音も、表してくこと、
やってくことでその力磨いていこうな。
いい時間過ごせて、よっぽど嬉しかったんだなぁ。
というか、曲らしくなっても、どうもわざとらしかったり誇張している様で気持ち悪くて、出来てはボツが数年続いてた。
一昨年から、曲になるときは、スルスルスルと曲が生まれてくることが増えてきた。
一昨年は一曲、去年は三曲。
ひとつはinweuのバンドメンバーと練習中に、
皆んなの音が移り変わっていっても同じメロディーでそこにいたいなって思って探していたら、
それと一緒に言葉がぽつぽつ。
歌っていると、みんなと今一緒にいるんだなぁということや、音からの優しさや力強さを実感する。
好きだなぁと思える曲になってとても嬉しい。
曲?は、生まれては来るけれど、その時がいつ来るかはまだ掴みきれていない。
ときおり、" どうやって曲をつくるんですか? " と聞いていただくことがあるけれど、 " 曲をつくる " という言い方は、とてもしっくり来ないでいた。
" 降りてくる " なんていうのも、
なんか今はすごく違和感。
いつもうやむやに答えてしまったことが、
嘘をついてるみたいな感じにモヤモヤしていて、
どうやら気になっていたみたい。
***
最近は、友達親子と過ごす時間がちょこちょこと続いて訪れたのだけど、
その数日前にまるっと一気に曲らしい感じがぶわわわっと来たのを、
そのまま流れて取り逃がしてしまわずに、録音メモに残すことが出来た。
子どもが転びそうで転ばずに歩く様子や、
言葉が通じないもどかしさが感情で出ちゃう様子、
その体感をそばで感じているのがとても心地いい。
今になって思うと、過干渉で育ったわたしにとって、
したいようにしていく工程を見せてもらえることや、
不器用でもやろうとする姿はとっても励まされるんだと思う。
そのそばで、一緒に過ごす友達たちとの暮らしを感じることも。
きっとその心地よさを言葉で共有したかった。
ものすごく可愛らしく、子どもも大人も色んなことを不器用にやってっていいんだよなぁ、そうだよなぁって教わったことも。
その時にぱっと言葉に出来る能力が長けていたら、きっと音楽という形のアウトプットはしなかったんだろう。
言葉にしたい感覚の欲求が、音楽という形にすぽっと入る時がある。
そこに居るひとや、過ごしてきたひとと交わした言葉や、まつわる気持ちの未消化なもの。
嬉しかったことも悲しかったことも、言葉にならないものがありすぎると、そのうち体がいっぱいになってしんどくなる。
デトックスに近いんだと思う。
アウトプットしたのは私であっても、
その言葉の体感は、必ずしも私のものだけではない気がしてて、
" わたしの曲 " にはなるんだけど、そうじゃない感じがいつもしていて違和感があった。
こうやって書いてみたら、
でも、それってやっぱり自分の感覚なのかな?
何かに感動したり、共感するって、すごく不思議。
なんか不思議なことがいつまでも多い。
説明はわかるけど、腑に落ちないこと、知りたい。
また話がズレた!
録音メモで声にしたメロディーが、
友達の楽器の音だと思ったことをその子に話したら、
そのメモをちょっと聞いてくれたのだけれど。
自分でも聞き返してみたら、あんまりにも音を探り探り、迷路の様な録音メモだった。
ので、楽譜起こしをしていたんだけども、
記憶で書き起こしたのを書き直してみると全然違う。
録音メモで探って見つけ、探って見つけしている音をなぞらえると、
友達親子と過ごしたときの体感があった。
わたしだけの曲ではやっぱりなかったって思ったことを、言葉に記しておきたかった。
そうすれば、ライブのときも、もっと曲に安心して身をまかせられそうだなって思ったんだな。
友達のお家で、すごく素直に歌えたら、一緒にみんなの気持ちが動いていて、それをまた安心して感じながら歌っていられた感覚だった。
3月のいくつかのライブがとても楽しみ。
素直にやるのも、きっと、自転車乗りとおんなじ。
力を抜いてやれるようになるよ。
だんだんにそういうこと増えてきたもんね。
一緒に過ごしているうちに、曲が曲になる。
今は、それがとても嬉しい。
言葉にしたい感覚の欲求が、音楽という形だけでなくても、言葉になるなら普通に言葉にして消えるなら、それでいい。
つい形に固執したくなる自分がいること、
その安心感に似た枠は自分を苦しめてきたこと、
言葉にすることで、これから、気がつくの、だんだんに早くなるかな。
どの形にもさっとアウトプットして、すっきり気持ちよくいられる友達や子どものそばが、とても気持ちよかった。
先ずは言葉も、音も、表してくこと、
やってくことでその力磨いていこうな。
いい時間過ごせて、よっぽど嬉しかったんだなぁ。